チャンピオンを訪ねて

チャンピオンを訪ねて

シリーズ第1回

イントロダクション

2018年2月、16年前の日本代表 伊藤浩士(いとうひろし)さんを、栃木県宇都宮市に訪ねました。

彼は、2002年5月に静岡県裾野市で開催した第2回ソープボックスダービー日本グランプリ(SBD日本GP)で優勝し、第65回オールアメリカン・ソープボックスダービー国際大会(AASBD国際大会)の日本代表選手「チャンピオン」として、堂々の6位入賞を果たしました。現在に至るまで、日本選手で浩士さんの成績を超えた者はまだいません。

 

そもそも

 米国で1933年に始まった子どもの自動車レース「ソープボックスダービー」の精神―― ものづくり・競技への挑戦・家族の絆・クルマへの興味喚起 ――に共鳴した者たちが、1998年に日本ソープボックスダービーを立ち上げ、国内では馴染みがなかった「重力カーレース」であるソープボックスダービー競技の理解を得るのに時間を費やした結果、2001年5月、手探りでやっと第1回日本大会開催に漕ぎ着け、その夏にAASBD国際大会初参戦。浩士さんは、まだ私たちが競技のスキルを何も持たない時代の2代目代表選手でした。

2002年の振り返り

浩士さんは当時小学5年生。同行したお父さんの忠雄さんは、自らが板金塗装のお店を立ち上げ10年が過ぎた頃で、自宅に帰る40分のその時間も惜しんで働いていました。先日、あらためて浩士さんに、「アメリカに行く前の、お父さんと過ごした記憶はあるの。」と尋ねたところ「ほとんどないなあ。」とのこと。忠雄さんも以前に、「渡米前は、子どもの日々の様子は知らなかった。」と話していました。そんな父子初旅行は折々にチグハグで、旅程の10日間を共に過ごした私は彼らのやり取りを微笑ましく眺めていました。最も思い出に残る二人のエピソードは、バナナにまつわるものです。当時は、全米各地や海外数か国から集まる数百人のチャンピオンは郊外のキャンプ場のバンガローで寝食を共にし、会期中の一週間(月曜日の歓迎式にはじまり日々はレースの準備、土曜日が大会と表彰式)は親と離れて過ごしていました。ある日、忠雄さんは「息子の好物のバナナ」を持って浩士さんを訪ねたところ、「バナナが好きなのは弟の方だよ!」と言われ、回りの親たちから一斉にからかわれたり同感を得たり。皆で大笑いとなり、これを機に日本から参加した私たちはすっかり肩の力が抜けたのでした。

さて、大会当日は思いもよらぬ顛末となりました。レース本番、午前9時の開会式後、参加の約500台が部門毎(ストック、スーパーストック、マスターの3車種)に3台づつ走り、一位の者が勝ち進むトーナメント方式で始まりました。お父さんの忠雄さんの気分は「まな板の上の鯉」(当時の本人の弁)。浩士さんは、元来の物怖じしない性格なのか淡々と出走を待ち、いよいよ一走目。約30秒のレース直後、会場のアナウンスから「ヒロシ・イトウ、ジャパーン!」の声と、同時に周りからの拍手で一勝したことを知りました。二勝。三勝。浩士さんは無心を貫き、とうとうAASBD国際大会 スーパーストック部門の第65代 6位チャンピオンとなったのです。表彰式で授与された高さ◎◎メートルのトロフィーは、帰国の際に手荷物として何にも包まず空港へ持っていったところ、会う人ごとからお祝いの言葉をもらい、機内では一級の扱いで保管され、誇らしい気持ちで日本に戻りました。父子の濃密なひとときは、大変な成果をもたらしました。

最後に

先日、久しぶりに会った浩士さんは、入社4年目のカッコイイ社会人に成長し、栃木県内の某自動車会社の研究所で、トランスミッションの制御設計を担当する仕事をしていました。聞くと、入社試験の面接の際にソープボックスの体験談をしたとのこと。さて、それが今の仕事にどう影響したかは定かではありませんが、自動車の仕事に携わる彼を、私は嬉しく自慢に思いました。

伊藤浩士(いとうひろし)千葉県柏市出身
東京理科大学 基礎工学部卒 卒論はマイコン制御